僕が話を聞く理由=人と関わるのが嫌いな理由
致命的だ。
口下手というやつは、人と関わる上で、社会生活を営む上で致命的だ。
幼い頃から話が下手だった。
前世でどれほどの徳を積まなければこれほどの口下手が生まれるのだろうか、というほどに。
前世とは、自己完結的な不満の矛先である。
現世的に考えるなら、寡黙な性格で言葉を発する機会が少なかったからかもしれない。
家族でも母と兄がお喋りで、父と僕が口数少ないというのを踏まえれば、妥当な血の繋がりとして理解できるかもしれない。
注目を浴びるのは苦手だ。
自分が話している間、ありがたいことに人は耳を傾けてくれる。
そのときに感じるのは感謝ではない。
自分が場の中心に立つ息苦しさ。
下手な話で相手の時間を奪っている申し訳なさ。
テレビゲームでも、友達の前で一人プレイするのは気後れしてしまう。
早く交代したいと思いながらプレイして、テキトーなところで死んだら笑って少し安心していた。
主役になれない傍観者。
しどろもどろ。
頭の中で言葉がまとまりなく散らばっている。
その中から選ぶのも一苦労、捕まえるのもまた一苦労。
出来事のあらましは分かっているつもりだが、いい加減に詰め込んだオモチャ箱みたいに整理ができていない。
そして、どこを拾うか切り捨てるか、どこを肉付けするか、それをどう展開するか、これらを全く場当たり的にやろうとしてしまっている。
いやもちろん、大抵の人はスピーチ原稿など用意しなくても滞りなく話せるものだろう。
こと自分に関しては、それができない。
遅鈍な僕は、情報の取捨選択、言葉の取捨選択を瞬時にこなせる人間ではないのだ。
上手く言葉にできないもどかしさと、自前の頭の悪さに責め苛まれ、言葉を覚えたばかりの幼児のようにたどたどしく拙い語りしかできないのだ。
あわれ、口下手の面目躍如。
語りの拙さはブログでも健在だ。
文のつながりや段落のつながりが悪かったり、不必要な情報が入っていたり、話の広げ方が不十分だったりしたら、それは語り下手の証、隠しきれないバカの証だ。
時間の縛りがない文章でこの有様なのだから、現実の無様さは推して知るべし。
一事が万事この調子では、僕が聞き役に回らない方が不自然だろう。
他の人は自信と余裕を持って、スラスラと小気味よいテンポで話を展開し、笑いどころまで用意してのける。
僕からしたら常人離れしているが、これらを常人がやってのけているのが現実だ。
小中高大すべて話巧者に囲まれ、ひょっとしたら口下手は七十億分の一の類い稀なる才能なのではないか、と自虐的な気分に陥ることは稀ではない。
おどおどと自信もなく、小さく聞き取りにくい声でぼそぼそと、話す内容はちぐはぐで、聞く者に苦笑いを提供する男。
これでどうして自ら話をしたくなるだろうか。
自分より他の人が語る方がまとまっていて笑いもとれる。
仮に一人で面白い事に出くわしても、自分は口下手だからいいや。
どうせ他の人が別の面白い話をしてくれるから。
友達は話好きで楽しそうに話すし、家でも母と兄と時々父が賑やかにやっているし。
もう、語らなくていいや。
こうした諦めを自覚したのはいつからだろう。
中学生だろうか。
その頃には語りの差は歴然だった。
話すのは誰かに任せっきり。
語れないなら流してしまおう。
日常は名もない映像と化した。
日々をぼんやりと過ごし、誰かの語りを聞くだけ。
それならせめて聞く力をつけよう。
ツッコミ力も上げよう。
ボケとは違和感だ。
ツッコミはその違和感を指摘する。
違和感に気づくには話をよく聞いていなければならない。
どの部分がどうおかしいか素早く明快な指摘ができれば嬉しいが、そんな経験は無いに等しい。
幸いツッコミ役はそれほど立ち入らないでも、「なんでやねん(エセ関西弁)」の一言で事足りる。
「仕組まれたボケに気づきましたよ」とサインを送りさえすれば、その場は成立するからだ。
それにしても、何気ない会話でもすれ違うことが少なくないのに、意図的であろうとなかろうと、違和感を放り込んでみせるボケ役の勇気には恐れ入る。
「聞き上手」と言われたことが三度ある。
長らくその言葉にあぐらをかいていたが、今はもう反省して正座している。
僕は聞き役としてはきわめて平凡だ。
感心すれば「へー」と言い、驚けば「マジで?」と返す。
相槌は「うん」とか「ふん」とか「ほー」とか。
立て板に水のときは、邪魔にならないよう頷くだけ。
笑うところは笑う。
相手が詰まれば、言葉を補ってみる。
話は遮らず、最後まで聞く。
こんなこと、聞き役をもって自任する僕だけでなく全人類が行なっている、何の変哲もないことだ。
「聞き上手」には程遠い。
心掛けとしては、なるべく相手を否定しないようにしている。
自分が理解できないからといって否定はしたくない。
他の誰かなら理解して共感を示せるかもしれない何かを、自分が否定することで相手の知性感性の閃きをもみ消してしまうのは、あまりにもったいない。
人は多面体だ。
相手に見せているのは、その人の一面にすぎない。
まずはその一面を理解しようとすること。
たとえその人にそぐわない言動が出ても、らしくないと突っぱねずに別の一面なのだと理解しようとすること。
新たな人物像が浮き上がるのは非常に興味深い。
無意識の決めつけを省み、人間の豊かさを知る。
我ながらキレイ事を書いている。
実際の僕は、きっと無自覚に相手を否定しているのだろう。
そう思う今は、聞き手としての自分に懐疑的だ。
「人は多面体」という信条は、心の目隠しでしかなかったのではないか。
「この人はこういう人だ」と言えないのは、相手を限定しないためではなく、相手の一面さえも正視してなかっただけではないか。
すべてを受け容れようとする心は、すべてを受け流す心だったのではないか。
深い人間理解とやらに自惚れ、溺れていただけではないのか。
「聞き上手は話し上手」と人は言う。
それならなぜ僕は話し下手なのか。
僕が聞き上手なのではない。
周りが話し上手なのだ。
話し手が用意した間やボケに応じて、相槌を打たされたりツッコミを入れさせられたりしていただけだ。
何もかも相手の手の平の上。
僕は何もしていない。
すべてが楽しめるよう設計されている遊園地。
「楽しく遊んでおいで」と言われた子ども。
きっと聞き上手とは、相手の話を引き出したり広げたりするのが上手な人のことだろう。
僕にその力はない。
初対面が大嫌いだ。
知らない人を前にすると、頭が働きすぎて働かない。
何を喋るのが適切か。
何を質問するのが適切か。
この場に相応しい言葉は何か。
変なことを口走っていないか。
沈黙を迎えたらどうするか。
この気まずい沈黙をどう埋めるか。
気まずい、沈黙、気まずい。
困ったようにヘラヘラ笑い、逃げたくて仕方がない。
僕にとって会話とは、不可解のフェンシングだ。
相手の言葉に曖昧な点があったら、そこを突く。
ところが初対面の相手というのは、不可解を体現しすぎている。
緊張も災いして、どこを突けばいいのか更に分からない。
おまけにボケ役のような勇気は持ち合わせていない。
自分から仕掛けることはできない。
美術やプレゼンで一番苦手なのは、テーマが自由な時。
無限の自由を前に、ただ立ち尽くしてしまう。
アイディアが浮かばず考えに考え、ようやく思いついてもこれで良いのかと悩みに悩み、授業内で完成することはなかった。
決められない優柔不断。
踏みこめない小心翼々。
今までどうやって友達を作ってきたのか、と不思議に思う方もいるだろう。
答えは単純。
相手が果敢に踏みこめる人だったから。
話題に乏しい男。
話題とは三つに大別できる。
①自分の話(最近の出来事、趣味)
②世間の話(テレビ、ニュース)
③状況の話(これはインスタ映え)
僕の場合。
①自分の話
口下手だから話したくないし、そもそも話すようなネタがない。
②世間の話
ドラマは見ていないし、アニメも見なくなった。
面白い番組を見ても、相手も見ていなかったら説明義務が生じる。
とかく説明下手な僕には重荷となるため、自分から切り出すのは困難だ。
説明が下手なのは記憶の曖昧さも原因だろう。
三十分前に見たサザエさんの内容を説明しろと言われても、言葉に詰まる。
天性の忘れん坊将軍なのか、語るという前提がないまま流し見しているからなのか。
流行にも疎い。
追う体力がない。
今これだけ執拗に報道されている日馬富士の事件も、少し前にあった座間市の首吊り師のことも、おそらく一ヶ月後にはキレイさっぱり忘れているだろう。
芸能ニュースはどうでもいいものばかりだ。
名前と顔しか知らない人が熱愛しようが不倫しようが事故を起こそうが、自分の生活には一切関わりがない。
一時の流行を熱烈に追いかけまわしてはすぐ忘れ、新たな流行に乗っかってはまたすぐ降りて。
これで自分に何が残るのだろう。
その瞬間その瞬間を全力で楽しめて、その全力をコツコツ積み上げていけるタイプではない。
束の間の熱狂より、恒常的な微温。
自分の中の絶対が欲しい。
そうなれば自然と排他的になる。
鎖国が始まる。
新しいことは取り込まず、趣味だけに生きる。
以前アメトーークでゴルフ芸人を放送していた。
オードリー若林は人見知りで有名だ。
ゴルフを始める前は、スタッフを前に沈黙の幕を下ろしていた若林。
ゴルフが趣味になってからというもの、初対面でもゴルフのことをのべつ幕なしに熱く語る様子が映し出された。
これを受けて番組は、「ゴルフを始めたことで若林が明るくなった」と、あたかもゴルフというスポーツの効能であるかのように結論づけていたが、これは間違いだ。
人見知りは初対面だと会話の糸口を見つけられない。
若林はゴルフを始めたことで、ゴルフという共通の話題を手に入れ、それで臆さず話せるようになったのだろう。
(あるいは単純に、芸能人生活が長くなって人見知りを克服しただけかもしれない)
共通の話題としては趣味が共感を得やすい。
だけど僕の趣味はインドアで自己完結している。他人を巻き込まない。
読書が趣味の人と会っても、好きな作家が被ることはまずない。
いかんせん説明下手だから作品を紹介できない。
好きな作家・作品は?と訊かれても、パッと出てこないこともある。
好きなものがないのかもしれない。
好きを語るのが苦手だ。
好きは好きであって、説明する必要がないと思っているからだ。
それは怠惰でしかないのかもしれない。
一度リストにまとめてみた方が良さそうだ。
テニス観戦が趣味の人は周りにいない。
品川のテニスバーで他の人と一緒に観られるらしいが、脚が重い。
興奮するなら一人がいい。
好きな歌手は、名前を言っても分かってもらえない。
高二からライブに通い始めれば、流石によく見かける顔もあるが、内輪の空気が出来上がっていて飛び込む勇気がない。一人が楽でもある。
Twitterのアカウントも交流より情報収集がメイン。
今はしてないが一時期散歩が趣味だった。
もしそれが都内を練り歩くのだったら様々な発見があって話題にもできただろう。
実態は、ただ地元をぼんやりぐるぐる歩き回るだけで、発見といったら住み慣れた町なのに案外通ったことのない道がある、という単純で無内容なもの。
学生同士の自己紹介は、まず「どこ大?」「何学部?」から入る。
大した盛り上がりもなく時間稼ぎもできず、すぐ話題がお互いの趣味へと変わるが、やはり話を膨らます技量が足りず、思い出話も無ければ、当然気詰まりな時間になる。
「聞いてよ、この前ね、暇だから散歩しようかなって地元を歩いてたんだけど、そしたら意外とね、知らない道があるんだなって思って、見慣れたものとよく見たものはイコールじゃないんだなって気づいて、そこまではいいんだけど、ほら私、方向音痴じゃん、だからちょっと知らない道に出ると、それだけで迷子になった気がして、心細くてその場にうずくまっちゃって、当たり前だけど状況は変わらないし、どんどん日が暮れちゃうし、困ったな困ったなって頭抱えていたけど、笑わないでね、簡単な話、やっぱり笑っていいよ、脚を動かせばいいんだなって、いやジタバタさせるんじゃなくて、立って前に後ろに交互に動かすやつ、歩くっていうのかな、そうすれば知ってる道にも出れて、心も太ましくなるんじゃないかって、思いついたの、その時は世紀の大発見って感じだったけど、あとあと考えてみたら天才的なバカだね、私」
無内容を押し切る饒舌あれよかし。
友達とも話題が尽きることがある。
相手の近況を聞いて、僕は白紙の報告書を提出し、必然の沈黙を受け取る。
何度も繰り返された思い出話に花咲か爺さん、相手の饒舌で時間を繋ぎ止めたまま解散となればまだ良いが、話題がいよいよ尽きると、意味のない言葉を宙に投げ捨てる。あるいは沈黙を聞く。
ある程度の仲でないと難しい。
暴けば暴くほど退屈な人間だ。
少なくとも自分だったら関わり合いになどなりたくない。
友達が付き合いを続けてくれているのは、昔からのよしみという惰性だろうか。
その惰性に甘えて僕は進歩しようとしてこなかった。
このまま話し下手の聞き下手でも構わない。
そう信じて疑わなかった。
世の中は甘くない。
就活だ。
これほど相性の悪い手合いはない。
僕と就活の組み合わせを見たら、犬と猿も油と水も宇宙の底まで愛し合うことだろう。
就活は、自分がどういう人間であるかをエピソードを交えて自らの口で語らなければならない。
人生の主人公として振る舞わなければならない。
社会は傍観者気取りの話し下手を求めていない。
いいところなんてない。
魅力的な素質も、魅力的に見せる話術もない。
自分を押し出せない奴が成功するはずもなく、案の定、挫折した。
苦しまぎれに休学という延命措置を施しているが、来年なら勝てるという保証も自信もない。
話し手は発明家で、聞き手は利用者。
発明ができるのはその人だけ、発明品を使うのは誰でもいい。
聞き手は任意の存在だ。話を聞くのはあの人でもいいし、この人でもいい。Siriだっていい。
それに対して、話を語るのはその人にしかできない。身の回りの出来事を語るにしろ、頭の中の考えを披露するにしろ、それを語るのは、その人でなければならない。唯一無二の掛け替えのない存在だ。
これまで下手な聞き手を務めてきた僕は、誰にとっても代替可能な存在でしかなかった。
おかげで自分がどういう人間なのかも見えていない。
語り手は彫刻家だ。
知覚や経験というあやふやなものを脳の外に出し、己の存在を他者に刻み込む。
人は語りによって、自己を確立する。
他者の中に確かな生の刻印を残す。
だから僕はブログを書かなければならない。
自己を整理し、認識し、保存するために。
誰かの胸に残るように。
下手くそでもいい。
語ることを諦めてはいけない。