人の眼を覗くとき、

何が苦手って、人の目を見ることほど苦手なものは少ない。


嫌いというよりは苦手。

虫に対する嫌悪感とは違う。



ところで嫌いと苦手の違いって何だろう。

同じではないはず。


「苦手な人は沢山いるけど、嫌いな人は1人もいない」


これは成立する。


現に自分がそうだから。



会話してみて「あ、この人なんか苦手だな」ってことはよくある。

よくある。


ウマが合わないとか居心地が悪いとか、そんな感じ。


そう思っちゃう相手とは、自分からにしろ相手からにしろ距離が生まれる。


気詰まりする人と一緒にいたいと思わない。


ぎこちなさに気疲れしてしまう。


それは避けたい。


だから関わらなくなる。


浅い関係に終わる。


相手の嫌な面を見ずに済む。


嫌いな人がいないのは、自分が博愛主義者だからなんかじゃない。


嫌いになるほど苦手な人と深く関わってこなかったからだ。


それに、苦手な人/嫌いな人に感情を使うよりも、好意を持っている/持ってくれている相手に感情を使う方がよほど精神衛生を清潔に保てると思っている。


「Aが嫌いだ!」

よりも

「Bといるの楽しい!」

って思いたい。


精神衛生なんて言い方しなくても、そっちの方が楽しいじゃないですか。

幸せじゃないですか。



だけど来年の就活が成功すれば、僕も再来年には社会に出る。


色々な人と関わらなきゃいけなくなる。


苦手な人とも必然的に付き合わなきゃいけなくなる。


学生時代のように人との交わりを取捨選択できなくなる。


そうなると潔癖な精神衛生はどうなってしまうのだろう。


これまでずっと人様に「貴方のことが苦手です」と勝手なレッテルを貼りつけてきた報いなのか。


潔癖な付き合い方はできないのか。


できないなら「苦手」を「苦手じゃない」に変える努力をしないといけない。


どうすればいいんだろう。


人との関わりが絶対的に少ないから解決策が見えてこない。


相手のいいところに目を向けるとか?


言うは易し、だよなあ。


もっと人と関わるとか?


分かんねえなあ。




また逸れた。

人間関係の話は終わり。

目の話です。




もともと人の目を見るのは得意じゃなかったと思う。


なんとなく気恥ずかしくて見れなかった。

シャイですので。




突然変異。



中1も半ばを過ぎた頃、というのはもう思春期に入った頃。


精神的に激動の時期だけど、身体にも変化が現れる。


身長や体重はもちろん、肌トラブルが目に見えるようになる。


僕の肌は弱い。


ニキビもよくできた。


高3の頃かゆみが酷くて皮膚科に行ったらアトピー性皮膚炎との診断。


冬になると痒くなる。


冬は好きな季節だ。

いちばん大きな理由は、虫がいないから。

それに尽きると言ってもいい。

精神の調和がとれる季節。


晴れ渡った青空。

喉からスッと身体中に沁み渡る冷気。

寒さに震えながら見上げる星空。


これぞ冬。




だけど乾燥肌に悩まされるようになってからは、重度に憂鬱だ。


冬は好きだった。


南半球に逃げてしまいたい。


アトピー治療の発展を切に願う。



また2ミリほど脱線してしまった。

学習能力がないらしい。




ある日のこと。


右目の目頭の上あたりに「白いモノ」が出来た。


最初は小さくてニキビかなって思っていたけど、段々ニューっと伸びて1センチくらいの長さになった。


親に「あまり触らないほうが良い」と言われて気をつけていたけど、風呂上がりに体を拭いていたらポロっと取れてしまっていた。


取れたとはいえ、伸びていた部分が折れただけだから根は残ったまま。


カサブタみたいに剥がすことはできない。


なんというか、皮膚と一体化してる。



思春期のニキビだと親は考えた。

あるいは出来物だと。


時間が経てば治る、と。




目に見える変化に周りも反応する。


「右目のそれ、どうしたの?」

「痛くない?」


それに対して僕は

「ニキビらしいんだけど...」

とか

「よく分かんないんだよね...」

とか曖昧な答えを、曖昧な笑顔で返してきた。



このやり取りを中1から高3まで続けることになった。

大学生になると察する能力が高いのか、訊かれることはなかった。






コンプレックスだった。



訊かれても曖昧にやり過ごすしかないのが嫌だった。


あの得体の知れない気持ち悪いモノを見られるのが嫌だった。



人と目を合わすことが苦痛になった。



人と目を合わせば、自分の顔を見られているのが分かってしまう。


相手の目には醜悪なモノが映っているのが分かってしまう。


それを相手がどう思うかは分からないが、いい印象は抱かないだろうと想像に難くない。


そこから「自分が見られている」という状況を客観視する自分が生まれた。


相手が見てるだろう自分を、外から眺める自分。



見られている自分を見ている自分。



それは想像の産物でしかない。


一言で表すなら、自意識過剰だ。


コンプレックスのせいで自意識過剰になった。

僕はそう考えている。


客観的に眺める自分が付きまとうようになった。



たとえば


これを言ったら笑いを取れそうだ、という場面でも「お前がそれを言うのか?」って問いかけてくる。



たまにだけど、食事をしていても「こいつ、無表情に食ってんなよ」と思う。

ちょっと面白くなって顔が綻ぶ。一人で。



このブログにしても自己分析を装ったナルシシズムを馬鹿らしいと思う自分もいる。しかし、ここではナルシシズムが優勢。


ナルシシズムって言葉を使うこと自体がナルシシズムだなって思いました。




自意識過剰になって自重するようになった。

自嘲気味にもなった。


このコンプレックスは性格形成に大いに影響したと思う。



そんなわけで人と目を合わすのが苦手になった。


見られているって意識が苦手にさせた。






ある日、「白いモノ」と和解してみようと思った。

大学1年くらいの時期か。



これまでと違って醜いと思うのではなく、自分の一部だと、アイデンティティの一つだと考えようとしてみた。


発想の転換だ。


たしかにこれまで同じようなモノを持つ人と会ったことがない。


外見のインパクトは絶大だ。


「特異なモノをもつ人」として皆の記憶に残るかもしれない。


コレは自分である証拠。


自分を覚えておいてもらうのに必要なもの。




そんな訳ねえだろ




自己暗示は虚しく失敗に終わった。


やはり受け入れられなかった。


どうしても、どうしても受け入れられない。


コレと一緒に心中したくない。


一緒の墓に入りたくない。



そこで立ちふさがる疑問。


「このまま一生コンプレックスを抱いたまま生きていきたいか」



無理、それは無理。


変えられるものなら変えたい。






「やっぱりコレちょっと気になるから皮膚科行きたい」


親にそう言い、皮膚科に行ってきたのが去年の5月頃。



表皮下石灰沈着症



なんだか字面がいかめしいが、石灰(カルシウム)が溜まって表に出てきてしまう病気らしい。



医者「中年ぐらいに見られる症状で」

ぼく(ワシはおっさんなのか)

医者「でもその年齢だとただの偶然かな」



運命のイタズラ。

神の気まぐれ。


くたばれアホ神。



僕は日本的な無宗教でありながら、矛盾するようだけど、神はいると思っている。


というか、いてくれた方が都合がいい。


普段は信仰心なんてないし宗教的な何かもしてないけど、願い事を叶えてほしい時だけは「お願いします」と祈りを捧げ、その願いが叶わなかったり理不尽が身に降りかかったりすれば「くたばれや、このアホ」と罵り倒す、都合のいい存在。


罵り倒すだけじゃ足りないから磔にして無限金的地獄をお見舞いしてやりたい。憎い。


罰当たりですかね?

都合の悪い時は存在否定するので罰を与える主体が消え失せますね。

信仰心ないので。

ノーダメージ。



こう見るとふざけた人間ですね....




僕「治せますか?」


手術で取り除けるけど、手術の方は大学病院でってことで推薦状?を書いてもらった。



大学病院へ。

手術の説明を受けた。


局部麻酔をして患部を切開する。


その日は血液検査とかをして帰った。



手術当日


初めての麻酔。

極細の注射針を目蓋に。


本当に効くんだろうか?

実は効いてなくて切開したら痛いんじゃ?


仰向けになって患部以外の顔には薄い布を掛けられた。


先生「人体でいちばん薄い皮膚はどこ?」

医学生助手「目蓋です」

先生「そう、1ミリ」



切開。


痛くない。

というか感覚ない。

あるべき感覚がない。

妙な感じ。



手術中は右手を胸に当てていた。


心臓の鼓動がやけに強い。


それはまるで「感覚はなくても生きてるぞ」と声を張り上げているみたいで、右手は生にしがみついた。



熱い。

30分を過ぎた辺りからか、患部が熱を持ってきた。

手汗も出てきた。


切開したら今度は縫合。

少し痛かった。

早く終わってくれ。

痛いから。





触覚とか痛覚が無かったら自殺はもっとお手軽になると僕は思う。


自殺を妨げる2大要因は、死への恐怖と痛みだろう。


死という未経験は怖いし、激しい痛みもできれば味わいたくないもの。


恐怖を上回る勇気と激痛に耐える忍耐が必要になる。


決死の覚悟を強固にしなければ、アリに触れなかった僕のように、死にも触れない。



だけどもし痛覚を遮断できるのなら、あとは未知の世界に飛び込むだけになる。


飛び降り自殺をこれまではただの「飛び降りて死ぬ」という現象だと思っていたが、飛び降りる行為そのものは「死の世界に飛び込む」という比喩だったのか。



それはともかく、感覚が無くなれば忍耐を鍛えずとも一瞬の勇気を拵えるだけになる。



僕がもし自殺するなら痛みを感じる間もなく終える手段を選ぶ。


でも電車に飛び込んだり高所から飛び降りたりはしないだろう。


アメリカで銃を買って頭を撃ち抜く方法が有力候補だ。


引き金を引くだけで命が終わるなら全てが一瞬の出来事。


ちょっと酒で頭を麻痺させて、ふらっとあの世行き。


実にシンプル。


だけどわざわざ銃を買いに海外に行かないと逝けないのがネックだ。


それでもどうしても死にたくなったら煩わしさを抑えて死の達成が第一優先になる。

アメリカ行くくらい屁でもないと思うだろうと思ってる。


まあ銃買うまでの間に生きてみようって考えが変わるかもしれないが。


生き方はひとつじゃないと気づくかもしれない。



一方で、一瞬のうちに終わらせるのは勿体ないとも思う。


生から死へ即座に変化するのではなくて、生から段々に死にゆく様を味わってみたい気もする。


人生最期の瞬間というのは、人生最後の経験で人生最後に感じる知覚感覚だから。



どこか適当に刺して痛みを感じながら、次第に力も抜けて意識も薄れていく。


衰弱からの死。


その過程を経験し、その果ての生と死が交差する点に立ち会いたい気持ちがある。





まあご賢察の通り、こんなことを考えていられるほど頭がハッピーターンだから当分自殺する予定はない。


そんなに真剣に死のうと考えたこともない。

それだけ幸せということだ。



ただ幸せでない生があるから自殺は無くならない。


死の方が幸せな生。


自分がいつそちらに転ぶかは、分からない。






手術は成功に終わった。


縫い糸が黒で目立つのと出血もしていたから絆創膏を貼ってもらった。


場所が場所だけに絆創膏が目立つのが嫌だったけど、あと少し我慢すれば解放されると思うと少し気が楽になった。



1週間後、抜糸。

麻酔はせずスルスルっと抜けていった。ちょっと痛かった。


鏡で見せてくれた。


「白いモノ」の無い自分の顔。


「いまは傷跡が少し残ってますが、じきに肌に馴染んでいきますよ」




少し晴れ晴れとした気持ちだった。


8年もの間、苦しめられてきたコンプレックスからの解放。


大きな一歩を踏み出した。


これで堂々と人の目を見て話せる。




幻想。




現実は甘くない。全く甘くない。

砂糖なんて一粒たりとも混ざってない。

僕はブラックコーヒーを飲んで電車に乗ると頭痛に襲われる。

なんの話だ。



解放されて1年半が経つ今でも、「何が苦手かって人の目ほど苦手なものは少ない」と冒頭に書く程度に苦手なまま。


街中を歩くときも、大学のキャンパスを歩くときも、僕の目は真正面を見据えない。


俯き加減にしているか、周囲の風景を眺めている。


それなら目が入ってこないから。


人の顔には目があるから。



ニーチェの例の言葉は、前後の文脈も知らないしネタでしか使ったことがないけど、自分に近づけて「見るとは見られるを見ること」って意味に解釈すれば少し身近な言葉になる。



深淵が覗いてくるなら足元の地面も周囲の風景も自分のことを覗いているらしいけど、そんな自覚はないので苦手なのはあくまで人の目に限定される。




対処法もないわけじゃない。


カメラのピントみたいに目のピントも外して視界を少しだけぼかすやり方だ。


※目のピントを外すと言っても焦点が合ってないわけじゃないのでご注意を。


これならはっきりとした「目」っていう認識が薄れるおかげで前が見られる。


目のピントを外すなんて書き方をしたせいで分かりにくかったかもしれない。


要するにボーッとする、ただそれだけ。


街中では使えても、人を前にしては使えない。


意識の低いアホに見られてしまう。


いやまあ意識は低いんですけど...

就職面接で使えないですよね...





結局「白いモノ」を除去しても肥大化した自意識までは取り除けなかった。





憎き虫と和することもできない。

苦手な人と仲良くなれない。

コンプレックスを抑えることもできない。



恨み骨髄に徹する、ではないけど苦手骨髄に徹する傾向があるのか。

分からん。






終わりに


コンプレックスに制されて自意識過剰を拗らせた僕からコンプレックスの対処法をお話しします。



人は誰しもコンプレックスを抱えていると思います。


ありますよね。


イケメンとかは特にないといけませんよ。腹立たしいので。理不尽なので。にんげんみんなびょーどー。


そうじゃないとアホ神に金的地獄を見せてやらなきゃいけなくなる。

そんな無慈悲を僕にさせないようにイケメンにもコンプレックスがあらんことを。アーメン...





コンプレックスを克服する方法。


それは原因を「受け入れる」か「変える」か。


他人の入る隙などない、己との闘いです。


克己による克服しかありえないと思っています。


アレをアイデンティティと思い込もうとしたけど、どうしてもその醜悪さを「受け入れ」られずに手術で「変える」選択をしたのはお読みになった通りです。


コンプレックスが残した後遺症も。



もっと早くに手術していれば傷は浅く済んだのか?


そんな無意味な仮定に思いを馳せる時がありますが、おそらくここまで拗らせることもなかったと結論づけています。


ですからコンプレックスなんてものは、なるべく早く克服するべきです。


己との闘いであると同時に時間との闘いでもあるんです。



皆さんの具体的なコンプレックスなぞ僕には知る由もありません。

興味もありません。


もしそれが変えられる類のものならば、どんな手段を使ってでも変えてみてはどうでしょう。


もちろん生まれつきで変えられなかったり経済的な障壁があったりで、変えるなんてのは不可能だったり口ほどに容易ではなかったりするのが常ですよね。



どうしても難しいようでしたら、受け入れる道を歩んでみてください。


変えることが全てじゃない。



されど受容もまた茨の道・修羅の道。


茨にズタボロにされたり修羅にボコボコにされたりしてリタイアする人もいます。誰とは言いませんが。



それでも、コンプレックスに悩まされるより肯定的に受け入れる方が断然ましだと思います。


重症患者になりたいなら、それはもうどうぞどうぞ、ずっとずっとお悩み続けてください。僕はあなたじゃないので僕の知った話じゃない。どう向き合うかはご自分でお選びください。


それにしても重症患者って誰ですかね。

さぞかし嫌味な奴でしょうね、きっと。




克服は己との闘いと書きました。

自分がどうにかしないといけないので確かにそうです。


ありのままを受け入れるも、変えた後の自分を受け入れるも、それはあなた次第。


他人事ではない、あなたの意思に関わる問題です。


だからと言って他人は何もできずただ傍観するしかないのかというと、それは違います。


自己肯定の手助けはできます。


それしかできませんが、それこそが非常に大切なんです。



あなたの声を伝えてあげてください。


苦しんでいる人が「少しは受け入れてみようかな」って思えるような、そんな言葉をかけてあげてください。



具体的に書きましょう。



①「気にするな」は禁句。


どんな流れでそんなことを言ったのか覚えてませんが、

僕「やっぱコレ気になるわ」

友人「そんな気にしないでいいでしょ。俺は気にしてないし」



...


うーむ...


(友人が気にしていないという事実を知ったところで、自分が気にしているという現状が変わるわけじゃないんだよなあ)

って思ってしまいました。


それに他人が気にしていないものを気にせずにはいられない自分のみみっちさ、器の小ささへの嫌悪感も生じたような気がします。


たぶん友人は気遣ってそう言ってくれたんだと思うんですけど、それは分かってるつもりなんですけど、勝手に捻くれて慰めの言葉も正面から受け止められませんでした。


拗らせてます。








②媚びた言葉は使わない。


これが肝心です。



お座なりで軽薄な言葉というのはすぐにバレます。

その場しのぎの言葉は意味を持ちません。




じゃあどうするか。



想いを込めて「そこも含めて好き」と伝えてあげてください。


僕はそんなこと言われたことありませんが、もし言われていたら何か変わっていたかもしれません。言われたかった言葉ですね。


もちろん「好き」が小っ恥ずかしいなら「良いと思ってる」とかでも構いません。


大切なのは、想いの強さ。


本当の想い。


本心からの言葉は心に響きます。


苦しみ弱っている心になら尚更。



ただ注意が必要です。



失礼は承知していますが、中途半端な関係の人に言われてもそんなに響かないかもしれません。

距離が半端なら想いも半端。そんな言葉は要らないんです。



コンプレックスは繊細な割れ物。


半端な扱いは禁物です。




恋人とか親友とか、あなたが真に大事に思う人にだけ。


大事な人がコンプレックスで苦しんでいたら、その苦しみを和らげるために。


「こんな自分も悪くないかな」と思えるように。



剥き出しのコンプレックスを、あなたの真心でそっと包み込んであげてください。


それはあなたにしかできません。




お願いします。